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2006年7月

2006年7月13日 (木)

コラーゲンで若返り?

栄養バランスは、いつも気にしているのだが、もっと脳を活性化させる“ブレイン・フード”を摂ろう。

ビタミンC・E、フラボン、グルタミン酸、ドコサヘキサエンサン・・・頭の中をカタカナが駆け回る。

そして、結論☆、コラーゲンとコンドロイチン。老化防止&美肌作り・・・これだ!

それらの宝庫は何だろう。

世界の美女が食べた品が分かればヒントになるかな?。

楊貴妃の“ライチ”、クレオパトラの“モロヘイヤ”・・・は、以前に取り上げたので、日本の古典美女・小野小町を調べてみた。

まずは、小町がモデルと言われる『玉造小野小町壮衰書』を開いたら、エッ熊の掌?。

この本に書いてあると言うことは、小町が食べた可能性が大きいのだ。

彼女が生きていた平安時代は、庶民は貧しく粗末な食事だが、貴族や官史たち上流階級は美味・珍味で食卓を賑わしたらしい。

小町は、出羽の国の郡司・小野良実の次女。姉が宮仕えに出て“小野の町”と呼ばれたので、その妹だから“小町”なのだ。

彼女も姉と同じく、女官になったそうだが、職種は采女(天皇の傍にいて、主として食事の世話)だったらしい。

天皇の傍で、食事の世話をしていれば、そのお下がりがあっただろう。

当時の『厨事類記』では、料理技術が格段に進歩し、煮物・焼き物・揚げ物・蒸し物・和え物など、いまの日本料理の原型が出揃っていたことが分かる。

そして、正月や儀式のある時には、大ご馳走が並ぶ。山海の美味・珍味、木の実・果物、餅菓子、そこに獣肉もあり、熊の掌も登場する。

熊の掌なら、あの傾国の美女・楊貴妃も食べただろう。

小町も天皇のお下がりを頂戴したに違いない。

Photo_376 編集者時代に何度か熊の掌は食べたが、プルプルしていたと言う印象より無い。

同じコラーゲンを摂るのなら、私は“鱶鰭”の方がいい。

アブラナ科の青梗菜(チンゲンサイ)は、ミネラル分も多いが、ビタミンCが豊富な野菜。

コラーゲンやコンドロイチンは、ビタミンCと一緒に摂取すると吸収がいい。

チンゲンサイに鱶鰭スープをかけて、コラーゲン効果バッチリ。

老化防止で、少しは頭スッキリ、晴れ晴れするかなぁ・・・。

2006年7月12日 (水)

カレーの歴史

日々に暑さが厳しくなるが、暑くなって食欲が減退気味でも、不思議にカレーなら食べられる。

夏こそカレーの季節だ。

日本人は他国の料理に似せた、独特の料理を生み出すのが得意。

カツレツ、コロッケ、オムライス、ハヤシライスなどの洋食をはじめ、アンパン、ライスバーガー・・・そう、ラーメンも。

こうした国籍不明の料理は、どれも結構人気がある。

その両横綱とも言えるのが、ラーメンとカレーライスだろう。

本場インドのカレーとは、やはりちょっと違う日本の味のカレーライス。

それは、インドからどう伝わり、どう変化したのか?。

インドでは、日本の主婦が味噌を合わせて“我が家の味”の味噌汁を作るように、各家庭ごとに数種~数十種の香辛料を合わせて独自の味のカレーを作る。

インドが、イギリスの植民地になった1600年代の頃、初代総督がカレーの原料とインド米を、ビクトリア女王に献上。

そのカレーに将来性を見出し商売にしたのが、クロース&ブラックウェルの2人のイギリス人。

原料を一般人が使い易いように粉に挽き『カレー粉』として売り出した。

会社の名は《C&B》、カレー粉は大成功だった。

このカレー粉で作ったソースをインド米にかけた料理は“カリー・オー・リー”と呼ばれ、明治時代初期には、もう日本に伝わっている。

しかし、伝わったカリー・オー・リーは、何と、長ネギ&生姜&韮が材料で、柚子入りの米飯にかける・・・と言う大変身振り。

玉葱が普及していない時代だから、長ネギや韮は仕方無いとして、バターライスが柚子飯になるとは・・・確かに、ご飯の色は黄色だけれど・・・。

その後も、日本のカレーは変身し続け、明治20年代にはソースはうどん粉入りでドロドロに・・・出汁は鰹、醤油や味噌で調味。ジャガ芋もまだ無い。カレー粉を入れたと言うだけの代物。

明治30年代になって、初めて玉葱が使われ、牛乳を入れる家庭も現れた。

ともあれ、食べなれた米飯にカレーが合う・・・と言うのと、世が「西洋、西洋と草木もなびく」風潮で、カレーライス(当時はライスかれー)は、どこの家庭でも大人気。

こうしてカレーライスは、日本の食事として急速に発達・普及した。

インドから、イギリスに持っていかれたカレーは、すぐにヨーロッパ中に広まり、C&B社が“カレー粉”として売り出して大ヒット。

間もなく日本にも持ち込まれたが、日本で作られたカレーは本場インドはもとより、イギリスとも似ても似つかないものに変わっていた。

それでも、明治初期から中期、末期と、材料や作り方に工夫があり、次第にそれっぽいものに近づいてはきたが、大正時代に入り、サラリーマンが増えると、カレーライス(当時はライスカレー)人気はますます拍車がかかる。

大衆食堂がどんどん増え、“安い・旨い・早い”昼食が大流行。丼物、一皿物が売れた。

中で超人気メニューが、丼ではカツ丼、一皿物ではダントツでライスカレーだった。

こうした洋食文化の中心は、東京・神田の『須田町食堂』で、昭和初期になり、庶民受けしていたライスカレーを、レストランの花形メニューとして位置付け、カレーライスにしたのが、新宿『中村屋』と銀座『資生堂パーラー』、大阪・梅田『阪急食堂』の各店。

とくに新宿『中村屋』は、他店に比べかなり高額料金だったが、日本のカレーとはまるで違う味わいで、「これが本場インドの味」と話題を集め、評判になった。

その『中村屋』の、本場インドカレーは、中村屋の娘婿になった、インド独立の志士、ラス・ビバリ・ボーズ氏が作り伝えたものだ。

カレー人気は高まるばかりで、日本でもカレーに魅せられ、カレーに人生を賭けた人を多勢世に送り出した。

キンケイ食品の森村社長、ヱスビー食品の山崎会長などが代表格だろう。

家庭用の、カレールゥや、カレーソースのレトルトパックも、味の多様化・高級化が進み、明治初期のあの“うどん粉、醤油・味噌調味カレー”と“柚子飯”の組み合わせは、想像すら出来なくなった。

ただ、家庭の味が薄れ、メーカーの味になっていくのは寂しい。

せめて、ルゥを2~3種混ぜたり、香辛料を追加したりして、お仕着せの味を“我が家風”に作り変えよう。

枝豆、茄子、グリーンアスパラなど、夏野菜をたっぷり入れて、夏こそカレーだ!

因みに、ハイレベルなクラシック・カレーを紹介(約10皿)しよう。

カレー粉は使っていないから、ある意味では日本の初期のカレー?。ただし、うどん粉ドロドロカレーと違うのは、現代に通用する高級感のある味なのだ。

一流店のシェフから教わった、その店の一番人気カレー(“昔カレー”とメニューに)だ。興味を持った方&時間のある方は是非お試しを。

  • ブイヨンスープ1000cc、薄力粉500g、バター380g、リンゴ2個、人参2本、ニンニク&生姜各200g。
  • 鍋に粉と、溶かしたバターを混ぜ合わせ、アルミホイルを被せて、強火のオーブンに入れ約20分、中火以下にして約60分、中が自熱を発するまで焼く。
  • ミキサーでおろしたニンニクと生姜を加え、焦がさぬようにアルミホイルを被せて、鳶色になるまでさらに中火以下で約60分焼く。
  • スープでソース状にのばし、おろしたリンゴ・人参を加え、中火で掻き混ぜながら2~3時間煮込んで保存。
  • 炒めた牛肉や野菜を、このソースで軽く煮て出来上がり。

2006年7月 6日 (木)

胃が疲れたら『お粥』

Dsc01111

Dsc01111 今日から、浅草の恒例・朝顔市が始まる。

近隣に朝顔の花はまだ見ない。

朝顔市の花鉢は温室咲きで、天候の影響がないから、この日に合わせてちゃんと咲く。

雨の日が多くて、季節のいろいろな花や野菜のピークもずれているが、行事だけは例年通り。

朝顔が咲き始める頃は、暑さも厳しくなる時期。

冷たい食べ物は、喉越しがいいが、胃にはあまり優しくない。

そこで、鶏のモツなど使った、中国粥などを取り入れよう。

中国には、インディカ米・ジャポニカ米の他、赤米・黒米・香米など、数え切れない種類の米があり、従って多くの米料理がある。

インディカ米のような、粘り気が無くパラパラしている米は、チャーハン向き。

赤米・黒米などは、粽のようなパォファン(包飯)に。

ジャポニカ米は、お粥が合うが、他にも炊き込み飯、ファンタン(スープかけ飯)、パイファン(白飯)など、米の特徴を活かして使っている。

お粥=ツォゥもちゃんと米料理の一つなのだ。

中国料理の秘術を極めて、文化として認められている。

粥(ツォゥ)は、広東風では、米を糊状になるまで煮込み、使う具も豪華。

上海風は、米の姿・形を壊さぬようトロリと炊き上げる。白粥が主で、小菜と呼ばれる小さなオカズを何種類も添える。

前日の残り飯に水を加えて作る粥は、稀飯(シーファン)と呼び、早朝生活をエンジョイしている北京辺りで、万頭やシューマイと一緒に朝の飲茶に楽しむ。

朝の粥は、一日のスタートを消化器を清めてからと言う『清腸潔胃』の精神に基づく。

総てに“医食同源”の中国、粥も例外なく『薬膳』の考えを重んじ、体調に合わせた具を用い調理する。

一般的なものには、“牛乳粥”“果実粥”“茶粥”“小豆粥”・・・etc。

さて、中国の粥は仏教の影響と、薬膳の考えから発達したが、日本ではどうか。

粥の歴史の始めは、『古事記』にスサノオノミコトに殺されたオオゲツヒメノカミの死体の目から稲・耳から粟・鼻から小豆・股から麦・尻から大豆が生じたと記述がある。

さらに『日本書紀』に、これら五穀をアメノクマヒトが、アマテラスオオミカミに献上・・・とあるから、新道との関わりで伝承されてきたと思える。

各地の神社に、“粥占い”“粥開き”などの神事があること、“七草粥”のように厄除けの風習があることなどに、一端が伺える。

もっとも、日本の古代は、殆どが餅米で、玄米のまま蒸したり、煮たり、時には焼き米にして食べていたわけで、蒸したものを強飯(こわめし)、水気を多く煮たものを汁粥、水気を少なく煮たものを固粥(かたかゆ)と言っていた。

この固粥が、今で言うご飯で、強飯がオコワだ。

つまり、我々現代人は、古代日本の固粥を日常的に食べていることになる。

中国では、米から粥が炊ければ一人前・・・と言われるが、日本の炊飯器は、一人前も半人前も、その壁を無くした。

土鍋で炊くのは美味しいが、最近の炊飯器は土鍋を超えた?。

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