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2006年9月29日 (金)

恋の詩情を“秋刀魚”に託す?

昨日に続き、今日も“秋刀魚”の話。

佐藤 春夫の『秋刀魚の歌』は、殆どの方が一度は読まれたことがあるだろう。

大正12年『我が一九二二年』(新潮社)に収められた異色の詩だ。Dsc02933

あはれPhoto_355

秋風よ

情(こころ)あらば伝へてよ

-----男ありて

今日の夕餉に ひとり

さんまを食ひて

思ひにふける、と

     :

さんま、さんま、

そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて

さんまを食うはその男がふる里のならひなり。

そのならひをあやしみなつかしみて女は

いくたびか蒼き蜜柑をもぎ来て夕餉にむかいけむ。

    :

あはれ、人に捨てられんとする人妻と

妻にそむかれたる男と食卓にむかえば、

愛うすき父を持ちし女の児は

小さき箸をあやつりなやみつつ

父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。

    :

あはれ

秋風よ

汝こそは見つらめ

世のつねならぬかの団欒(まどゐ)を。

いかに

秋風よ

いとせめて

証(あかし)せよ かの一ときの団欒ゆめに非ずと。

    :

あはれ

秋風よ

情あらば伝へてよ、

夫を失はざりし妻と

父を失はざりし幼児(おさなご)とに伝へてよ

-------男ありて

今日の夕餉に ひとり

さんまを食ひて

涙をながす、と。

    :

さんま、さんま、

さんま苦いか塩っぱいか。

そが上に熱き涙をしたたらせて

さんまを食うはいずこの里のならひぞや。

あはれ

げにそは問はまほしくをかし。

この詩を書いた頃、彼は妻と別れ、谷崎 潤一郎の前妻・千代に報われない恋情を抱き、その執着心に悶々としていた。

それを知って、第2連と第4連を読むと、その対比が際立つ。

恋情には似つかわしくない“秋刀魚”を使ったのは、第3連の“団欒”に意味を持たせるため・・・大衆魚の秋刀魚を、七輪でモウモウと煙を上げて焼く・・・焼きたての秋刀魚を夕餉に食べる、家庭の象徴だ。

妻と別れた男の食卓に乗る秋刀魚は、冷めかけて、上に絞りかける青い蜜柑(スダチか?)も無い。

内臓の苦さが思い出につながり、余計に涙を誘ったか・・・秋刀魚はさらに塩っぱくて・・・しかめた顔に「げにそは問はまほしくをかし」と自嘲する。

哀切なる恋情と執着を、俗っぽい秋刀魚によって、自虐的に苦笑いしてみせる。これが佐藤 春夫の宿命的な本質かも知れない。

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