恋の詩情を“秋刀魚”に託す?
昨日に続き、今日も“秋刀魚”の話。
佐藤 春夫の『秋刀魚の歌』は、殆どの方が一度は読まれたことがあるだろう。
大正12年『我が一九二二年』(新潮社)に収められた異色の詩だ。
秋風よ
情(こころ)あらば伝へてよ
-----男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
思ひにふける、と
:
さんま、さんま、
そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
さんまを食うはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて女は
いくたびか蒼き蜜柑をもぎ来て夕餉にむかいけむ。
:
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかえば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。
:
あはれ
秋風よ
汝こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒(まどゐ)を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証(あかし)せよ かの一ときの団欒ゆめに非ずと。
:
あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児(おさなご)とに伝へてよ
-------男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす、と。
:
さんま、さんま、
さんま苦いか塩っぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食うはいずこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。
この詩を書いた頃、彼は妻と別れ、谷崎 潤一郎の前妻・千代に報われない恋情を抱き、その執着心に悶々としていた。
それを知って、第2連と第4連を読むと、その対比が際立つ。
恋情には似つかわしくない“秋刀魚”を使ったのは、第3連の“団欒”に意味を持たせるため・・・大衆魚の秋刀魚を、七輪でモウモウと煙を上げて焼く・・・焼きたての秋刀魚を夕餉に食べる、家庭の象徴だ。
妻と別れた男の食卓に乗る秋刀魚は、冷めかけて、上に絞りかける青い蜜柑(スダチか?)も無い。
内臓の苦さが思い出につながり、余計に涙を誘ったか・・・秋刀魚はさらに塩っぱくて・・・しかめた顔に「げにそは問はまほしくをかし」と自嘲する。
哀切なる恋情と執着を、俗っぽい秋刀魚によって、自虐的に苦笑いしてみせる。これが佐藤 春夫の宿命的な本質かも知れない。
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