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2007年11月 2日 (金)

淡谷のり子先生との思い出

今日は“自分が自分じゃないんです”・・・寝てませ~ん。

この歳で徹夜、しかも今夜も眠れないかも・・・久し振りの、纏まった仕事。

編集者冥利に尽きるのだが、キツイと思いつつも、私の最期の大仕事だと頑張り全開!!

Photoさて、それとは関係ないのだが、 いま、青森の《近代文学館》で、故・淡谷のり子先生の兄上、故・淡谷悠蔵先生の「生誕110年企画展」が開かれている。

淡谷悠蔵先生は、かつての社会党の名議員だったが、我が父(自民党)にも大先輩として、党派を超えて、親しく教えを下さった方だ。

因みに悠蔵先生の経歴を、ザッとご紹介すると・・・。

1897(明治30)年、青森町寺町(現・青森市)に生まれた。

1918(大正7)年、トルストイの人道主義に共鳴し、新城村(現青森市)で農業を始め、農民運動に深く関わる一方、短歌雑誌「黎明」総合文芸誌「座標」を創刊、多くの小説・評論・戯曲を発表し、県内の文学活動に大きな影響を与えた。

農民運動、社会主義運動、地方文学活動、政治家としての活動、と多岐にわたる98年間の生涯を通じて「苦学一生」の精神を貫き、自伝的長編小説『野の記録』を始めとする多くの著作を残した、政治にも文学にも大きな足跡を残された方だ。

今回の展示は、淡谷悠蔵・生誕110年という節目の年にあたり、その生涯と業績を概観するもの。

私は、悠蔵先生と父とのご縁で、淡谷のり子先生に、取材をお願いしたことがある。

それを快くお引き受け頂き、以来数度、お電話でご都合を伺って、大田区上池台のご自宅にお邪魔させていただいたのだ。1156_2

先生、ご一緒のプライベート写真を公開することを、お許しください。

「別れのブルース」「雨のブルース」などのヒット曲を持つ歌手淡谷のり子(本名淡谷のり)先生も、お兄様と同様に、正義の主義主張を貫く精神力のある方だった。

津軽のジョッパリ(強情張り)精神に支えられた、反骨精神や強固なプロ意識は、世代を超えて多くの人の共感を呼んだことを記憶されておられるだろう。1160

歌謡界のご意見番として毒舌も振るったが、言葉の裏には温かさがあった。1159

98年10月、青森市から女性で初の名誉市民に選ばれ笑顔を見せたが、それがほとんど最後のお顔見せだった。

口癖は「歌と一緒に死んでいきたい」、その言葉通りの人生だった。

お歳を召しても、歌手の魂は熱く、渋谷の【ジャンジャン】で歌っていらしたが、楽屋ではお一人で立ち歩くことも困難だったのに、いったんステージに上がると、背筋をシャキッと伸ばして、スッと立って通る声で歌われた。

あの頃、流行っていた、下北沢マルシェ【I(あい)】(本田劇場ビル内)の“虹色のゼリー”を、ご自宅や楽屋に持参すると「自然の野菜や果物の色だからキレイね、美味しい」と喜んで食べてくださった。

1999年の9月22日、92歳で、東京都大田区の自宅で死去された。

妹のとし子さんと、1人娘の奈々子さんご夫妻と同居されていたが、いつでもにこやかで穏やか、あったかいご家族だったのは忘れられない。

先日、母の葬儀のあと、墓苑も近くだったのでお墓にお参りしてきたが、しばらくは先生のあったかいお人柄と、思い出が私の胸を熱くしていた。

《ば~ばの食べ物事典》を作りました。ご参考になれば幸甚。

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