蟹缶で炊き込みご飯
去年のお中元に(お歳暮じゃないんだよ)いただいたタラバガニの蟹缶の5個セット。
まだ1缶残っていた・・・缶詰は3年は保つからいいんだけど。
それを使って、今日の昼は簡単な「蟹炊き込み飯」にした。
明朝からの検査で、今夜から絶食(食べるのは我慢できるけど、飲むのはどうかな~?)
因みに、呑ん兵衛は麻酔が効きにくい・・・過去に呑んできた量で、麻酔の効きが違う。
呑んできた報いで、苦しみが倍増するよ~。
日本で、缶詰の本格生産が始まったのは1877年10月10日のことで、この日は現在「缶詰の日」として制定されている。
石狩川河口に「開拓使石狩罐詰所」(官営工場)が開設され、石狩川で獲れた50尾の鮭を使って缶詰の生産を開始したのが最初。
アメリカから、二名の技術者を招いて技術指導や製造を行ったそうだが、前準備にはクラーク博士も加わったと言われる。
このころ(明治時代)には道内本土や国後択捉などで、鹿肉缶詰工場、ホッカイシマエビ缶詰工場なんかもあったとされるが、当時は缶詰の値段は高くて高級品だったため、主に輸出向けだった。
しかし、その鮭缶詰も根室近海のサケマス漁の不振で衰退。
そこで別の原材料として、択捉島や国後島近海で多く獲れてはいたが、ほとんど廃棄(いまなら考えられないね~)されてきた蟹に注目。
1904年、和泉庄蔵と碓氷勝三郎が国後島で国内初の蟹缶詰を生産。
蟹独特の身の酸化問題を解決(現在もその応用が用いられている)出来たので、翌年から本格生産に入った。
この蟹缶詰工場は飛躍的に発展し、明治末期までに約50のタラバガニ缶詰工場があったといわれる。
それらの工場は、根室地方(千島を含む)と国後島にその半数が集まっていた。
大正時代には全国の約7割の缶詰は北海道地方で生産されていたという。
これだけ工場が増えて、缶詰生産が伸びたために登場したのが「蟹工船」だ。
これは長い航海に出かけ、蟹を漁獲し缶詰にするまでの一連の作業を行う、1921年から1943年まであった海に浮かぶ蟹缶詰製造工場。
地獄船と揶揄されてきたその過酷な労働は、プロレタリア文学の代表作家、小林多喜二の「蟹工船」に詳しく掲載され映像化もされた。
船体は病院船など古い船が再活用されており、川崎船という小型船を数隻積載、当初は、オホーツク海や北方領土、1923年からはカムチャッカでも操業されるようになった。
そして戦後、漁場や缶詰工場のほとんどが北方領土にあり、その領土を失ったことが大きな痛手となり、漁獲量は減少、根室にわずか5工場を数えるだけになってしまった。
その後、北方領土の海域に入って操業する船も多くなり、戦後10年後には缶詰工場も30工場にまで増加。
しかし再び、1977年の200海里漁業水域によって、タラバガニ漁業は大きく衰退、蟹缶詰工場での蟹缶詰生産最盛期は終わりを迎えた。
現代では、缶詰の歴史でも古くからある鮭・蟹のほか、サンマなどの水産缶詰が道内で生産され、ほかに観光地で見かける鹿・熊・トドといった缶詰まで出回っている。
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使ったのが節肉の缶詰だったので、飾り用に脚肉の一部を残して、缶汁ごと使った。
米ともち米(各270cc=合わせて3合)を洗って、缶汁と酒・薄口醤油(各大1)を入れ、おこわの規定分量まで水を加え炊き上げる。
上下をさっくり混ぜ返し、器に盛ったら、別に取り残しておいた脚肉を飾る。
刻み海苔や胡麻などトッピングしてもいい。
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