小江戸・川越に鰻求めて
8月5日は「土用のニの丑」。
先月24日の「土用の丑」には、市販の“国産鰻(宮崎)”で済ましたが、やはり名店で焼きたてを食べたい・・・と夫婦の意見一致。
昨年は武蔵小金井の【青木屋】、一昨年は三島の【桜屋】、その前は・・・と、毎年のように各地の名店を巡るのが楽しみだったから、今年が“無し”というのも寂しい。
ということで、今年は埼玉県の川越辺りに・・・と決定。
川越に着いて、まずは定番どおりに、『川越大師喜多院』に詣で、多宝塔を拝観。
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本堂(→)横の庫裏には『春日の局化粧の間』や『家光生誕の間』がある(撮影禁止)。
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必ず、自分とそっくりな羅漢が見つかると言われる『五百羅漢』。
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川越市は武蔵野台地のもっとも東北端に位置、人間が生活するのに条件が良かったとみえて、縄文・弥生の時代から栄えた地域ではあった。
入間郡三芳野の里とも言われ、「伊勢物語」にも登場してくる。
平安時代末期から鎌倉時代にかけては武蔵武士が勃興し、やがて河越、山田、仙波、古尾谷らが権力を握るようになった。
とりわけ強大だったのが、秩父氏の流れをくむ河越氏で、その娘は源頼朝の媒酌で義経の正妻となり、三男の重員は武蔵国総検校職に任命されるほどの実力をもってきた。
長禄元年(1457)に上杉持朝の命によって家臣の大田導真、道灌父子が川越城を築くとともに、川越の中心は入間川の東部の現在地に移った。
天正18年(1590)徳川家康の関東入部にともない川越藩がおかれたが、川越は江戸城北辺の守りであり、また豊富な物資の供給地として重要とみなされ、親藩・譜代の有力な大名をここに配置した。
八家21人の川越藩主のうち老中は酒井忠利、堀田正盛、松平信綱、秋元喬知、秋元涼朝、松平康英の6人が数えられる。
とくに喜多院は慶長4年(1599)の天海の来住によって500石の御朱印寺となり、その後江戸城紅葉山の別殿を移し、境内に東照宮を造営するなど寺運が大いに栄えた。
「小江戸」と呼ばれる繁栄をみせたのはこの頃からである。
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この『喜多院』から大通りに出て、左に信号二つ、そこが目指す鰻の老舗【いちのや】。
だが、鰻の記事は明日の楽しみ~(意地悪?)。
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小江戸と称される川越に、まだ行かれたことが無い方のために、蔵が並ぶ街並と名所「時の鐘」。
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数年前ほどの賑わいは無くなったが、いまでも人気の「菓子屋横丁」 、通りには格好いいメチャ・イケメン車夫の「人力車」も。
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富士通Azbyclub「プラチナブログ」殿堂(08・5)入り
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改訂《ば~ばの食べ物事典》を作りました。ご参考になれば幸甚。
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