« 感謝状 | トップページ | 支えられて・2 »

2014年3月23日 (日)

支えられて・1

heart美味しく食べられ、小さな楽しみがある日々…『一病息災』で穏やかに優しく生きていきたい。

.

私は“根性無しのヘタレ”ですが、こうして穏やかに人生の終活時期を迎えられたのは大勢の方々に支えられてきたからです。

.

満州の奉天(現・中国の瀋陽)で生まれた私は、敗戦により赤児で父に背負われて引き揚げました。

Rimg0006

(生後宮参りの日の私…おでこに剃り込みが~~んな訳ないですが、1ヶ月チョイくらいにしては髪が濃い…いまは薄くなって悩みですが。

この時、私を抱く両親は間もなく敗戦で引き揚げるなんて思ってなかったでしょう)

.

.

開拓地からの引揚げの人たちの多くは、赤児を中国人の養子にしたり、中には置き去りにしたり手放したと聞きます。

.

日本軍の幹部は、奥地から逃れる人々や前線にいた兵隊を見捨て、追っ手を遮るとの口実で橋や道路を壊して帰還。

そんなことも残された日本人の引揚げをさらに困難にしたのかも知れません。

.

母親が栄養不足で乳も出なくなり、ミルクや重湯など手に入るわけも無く、ひもじさに泣く赤児は「夜盗に居場所を知られる」と集団から責められ、口を塞いで「あの世に」とも。

.

私の母も乳が止まりましたが、幸いにも殆ど同時期に男児を出産された方の乳が豊富で、その方が我が子と私を両腕に抱えて左右の乳を吸わせてくれたのです。

さらに、父の部下だった中国の青年が「日本への帰路は命がけ、H子を私の娘に、必ず大事に育てる」と。

父は申し出を断りましたが、その青年は地域の党員のリーダーで「ならば、せめてH子が無事に日本に着けるように」と、父の率いる集団が無事に引揚げられるような可能な限りの手配をしてくれたそうです。

.

.

日本に着いても、頼れそうな人たちはそれぞれ家族の食い扶持で手一杯。

“余計者”の両親は、父の故郷である青森に辿り着かざるを得なかったのです。

辿り着いた故郷にも、帰還兵は大勢いるし、空襲で街は焼かれてるし…親・兄弟の居ない父には帰る家はもちろん、仕事すらありません。

.

そんな中、手を差し伸べてくれたのは父の同窓生たち(私にも大先輩にあたる方々)。

主要産業の一つ・漁業を早く起動に乗せて帰還兵にも仕事を…という父の思いに賛同して苦しい生活の中から資金を調達、株主になってくれました。

.

早く収入の道を…それは駅前広場のテントで娘を育てたくないという父の悲願だったでしょう。

まして、私は日本では珍しいジフテリアを発症し、治療する医師も見つからず薬も入手できずに“死”と直面したらしいの。

.

そうして、無一文で故郷に戻り、仮設のテントで数十日…父は土地を借りて小さな家を建てました。

父の始めた漁業資材会社は年ごとに事業を拡げ、製氷、缶詰、輸送など幾つかの関連会社が出来たのです。

.

父の懐が潤沢になると、大事に守ってきた赤児は甘やかされて我儘娘に┐(´д`)┌

母はしばしば、私を「あなたはお父さんの子だから」と言いました。

引き揚げ時に私を背負った父に「俺はこの子と地区民を守る、お前は我が身だけ守り抜け」と言い渡されたそうです。

.

当時の状況では止むを得なかったことでしょう、父もいっぱい一杯だったかと。

でも…いくら思い出そうとしても、私には引き揚げ後も母に抱かれたとか手を繋いで貰った記憶がありません。

それでも、そんな娘は『女学生の友』やちょっとオマセに『それいゆ』など見ては、都会のファッションに憧れて「私、大きくなったらデザイナーになるshine」。

父の苦労など知る由も無く「これ欲しい、アレもいいなぁ」なんて言ってました。

.

ちょうどその頃、父の事業は貸し倒れ(黒字倒産)。

貸した金はなかなか返して貰えないけれど、借りた金はシッカリ矢のごとく催促されますね~。

それから数年後に父は急逝したのです。

.

≪誕生から幼少期≫→我儘娘の学生時代は飛ばして、続き≪結婚からのち≫へ。

.

**************************

※コメントは非公開で保留の設定ですので、直ぐには反映されませんがご了承ください。

また、悪戯や悪意のコメントは削除させて頂きます。

.

また、“非公開で”の連絡や報告も書き込んでくださいね。

.

強い思いで末期を生きた夫の思いに酬いるように、元気に生きて行きます。

« 感謝状 | トップページ | 支えられて・2 »

コメント

終戦を満州で迎えたなんてご両親の苦労計り知れないですね。
私の同世代の従弟5人兄弟ですがみな無地に引き上げてきて
我が家に居候しましたよ。
私の両親が仏様見たいのお人よしですので
自分の食べる分も減らして貢いでいましたよ。
我が家は貧乏で借金も有ったが
家が大きかったので
東京の親せきの人も我が家にすみました。
何年後みんな我が家より裕福になったが
誰も何もしてくれませんでした。
世間は世知辛いということを学びました。

ば~ばさん こんにちは^^
私の両親は戦争の事や戦後の話は
あまりしなかったですね~
一番上の兄が産まれたのは戦後まもなくで
どれ程大変だったかと、想像はつきますね。
母は運よく母乳が出たので
私達きょうだいは皆母乳でそだったようです。

優しくば~ばさんに添えられたお母様の手、働き者の手ですね
いろんな想いで写真を見つめました。

可愛い赤ちゃん~ご両親には幸運の女神さまだったのでしょうね。
本当に、中国に置き去りにされた子供や、殺された子供達が多かった
とききます。その中で、命からがら日本へ帰還されたご両親。
ましてや、ジフテリア・・・。よくぞ成長されましたね。命の力です。
当時の日本の女性は、ファッションに熱い視線を送っていましたよね。
「りかちゃん人形」の研究をしていたんですよ、私。卒論でしたが、
あのお母さんのお仕事が、ファッションデザイナー。
戦後の日本で、女性達があこがれたのが、海外のファッション。
だから、ばーばさまのお気持ちわかります。
次も楽しみにしています。

何だか。。。小説のようです…。お小さかったころのいくつかの岐路で、どなたかが、または運命が別の選択肢をとっていたら、ば〜ばさまの人生は、今とはまったく違うものになっていたのですね。ふしぎであり、こわくもあり。。。となると、ご主人さまと出会われたのは必然、だったのでしょう。

後半を拝見して、やはり個性というのは、どのような環境や状況でもにじみでるもの、と改めて思いました。戦後すぐの、装飾的なものの少ない時代、しかも青森。。そのような環境でも、ば〜ばさまの芸術的な感性は育っていったのだなぁと。

学校や家庭という限られた枠の中であっても、にじみでるもの、それが個性だと思っています。「女の子だから」と言われ続けて育った私。「何だか違うぞ、この道じゃない」と思いながら、そして示された道に強い違和感を感じながら、学生時代を送りました。ご自分のことをよく知り、向いた道を選んでこられたば〜ばさま、「我儘娘の学生時代」には、きっと輝いておられたことでしょう♡

この記事を読ませて頂き、大変驚いています。
と言いますのは、私も終戦直後ば~ば様と同じ場所で産まれ、翌年両親は年子3人を連れて引き揚げてきたのです。
父親は6年前に他界しましたが96歳の母親は多少耳が遠い事を除けば、いたって元気です。先日その母から引き揚げ船はアメリカ貨物船バーバリー号だったことを聞きました。その船が着いた舞鶴港に今年6月行く予定にしています。引揚者記念館を見学しようと思っています。

遅くなりましたが、たびたびハーモニーやガーデンのことを紹介して頂き、ありがとうございます。にじの会との縁だけでなく個人的にも不思議な縁があることを知り驚いています。

私は終戦2年目の子供で、体験的には無いのですがいっぱい聞いているので
体験したような気持ちでいます
東京も焼け野原で、都電の次の駅が見えたほどの野原でした
引き上げの悲惨さはいっぱい読んだり聞いたりしています
ば~ばさまのお父様のような方が頑張ったので今の日本があるのです
この事は語り継がれなくてはいけませんよね
私達には実体験ですが、今の世代の人には歴史でしかないですものね
未だに戦争の補償問題でもめていますが…
戦争絶対嫌ですね…世界ではあちらこちらと終る事がありません…◞‸◟ㆀ
「女学生の友」懐かしい~「それいゆ」中原淳一懐かし~
いっきに気持ちが…あの頃へ…꒰ღ˘◡˘ற꒱❤⃛

流れる星は生きているや竹林はるか遠くなど読んでいると、なんと壮絶なと思いますが、どこか物語の中の話のようで…
本当にあったことなんですよね。
最近は残留孤児も取り上げられなくなりましたけど、そんな日本の子供たちがたくさんいたんでしょうね。
ば~ばさんのご両親も大変な思いをなさったことと思います。
でもば~ばさんがお年頃になっていうわがままも、そんな時代を潜り抜けてきたからこそ、ご両親にとっては返ってしあわせを感じることだったのかもしれませんね。

それいゆ…私はその昔のオサレな雑誌の表紙を見て「それいけ」と読んでました^^;

heart応援を頂いている皆様
いつもありがとうございます、桜前線が北上を始めて春本番&花粉症も本番で嬉しくツライ時季confident


pencilみかん様
コメントをありがとうございます。

お世話をした方々が豊かになっていく…お父上のお気持ちは見返りをアテにされてのことじゃないので、きっと温情深く見ておられたのだと思いますconfident


pencilチーちゃん様
コメントをありがとうございます。

日本中が厳しい戦後を乗り越えてきた時代…震災後の復興も民力の団結で進展しますようにsmile


pencilみどり様
コメントをありがとうございます。

いかにも“じょっぱり”顔の赤児でしょ。
とにかく着る物にうるさい子だったそうです、本の表紙に載る洋服と同じ服を縫って貰い(スカートくらいは自分で縫って)お洒落大好きでしたweep


pencilじゅんこ様
コメントをありがとうございます。

雪籠り時期の長い青森は個性的画家や作家を輩出しています…そんな先輩たちに憧れていましたが、とてもとても足元にも及びませんでした。


pencilレインボー様
コメントをありがとうございます。

驚きました…もしそのまま数年居たら、同じ日本人学校だったかも知れなかったですね。
ブログを訪れてくださる方も、時々【ガーデン】に立ち寄られるそうですよdelicious


penciltime様
コメントをありがとうございます。

中原純一が描く目が大きくウェストがキュッ、ポニーテールでふんわりスカートの少女に憧れました(見た目はまるで違うのに本人はその気で)…いまのように少女服が巷に溢れてませんでしたが~smile


pencilでんぐりがえる様
コメントをありがとうございます。

残留孤児の親探しが始まった頃「これは私だったかも知れない」と切なかったです…日中間は未だ問題山積ですが、残留孤児を大事に育てた中国の里親たちには感謝しないとねconfident

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 感謝状 | トップページ | 支えられて・2 »