美味しく食べられ、小さな楽しみがある日々…『一病息災』で穏やかに優しく生きたい。
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私が『憲法9条』に拘り、戦争に反対するのには自身の体験もあります。
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私が生まれたのは、いまでは瀋陽(中国)、当時は奉天と言われた繁華な街です。
炭鉱所や製鉄所など軍需産業で栄えて…父も引き立ててくれる人に出会い、若くしてそんな炭鉱所の役職でした。
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ただ、戦時中のことで表立っては言えない想い~~父の心中は“プロレタリアート”だったのです。
旧家に生まれながら、生まれたその日に跡継ぎ誕生を喜び馬を駆けて帰る父親が落馬事故で亡くなるという不運。
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物心ついた頃には世間慣れしていない母親を養うために蔵の品々や庭に咲く花を色街で売る日々。
生家はブルジョアでありながら、生活は労働者以下…そこから無産階級の人たちへの連帯感?が生まれだのでしょうか。
エリートの道と言われた青中(青森高校)から六高(弘前大学)へ進んだものの、思想的に国内では『赤』と呼ばれ、結局は満州に逃避したのです。
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そんな父の境遇を全て受け入れ、息子同様に可愛がってくれたのが炭鉱所々長。
若くして役職を得た父は、根が“プロレタリア”のせいなのか働く中国の人たちに慕われました。
嫁を迎えて満州で家庭を持って幸せに~~というはずが。
敗戦で一気に奈落の底に…でも、雇用されていた多くの中国人が日本への帰国を陰ながら支援してくれたそうです。
だから、私のように赤子で無事に引揚げられたのは奇跡的なことです。
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いち早く逃げた将校や官僚は、逃路の道や橋を破壊…民衆の引き上げを邪魔したのは同じ日本人。
やっと引揚げ船の出るコロ島まで辿り着いても、その運搬船の船倉ではジャガイモ以下の扱い。
長旅で日本に…どれだけ多くの人たちが本土を夢見ながら船中で亡くなったことか。
そして佐世保上陸、煤けて垢だらけDDT塗れ襤褸布れ以下の帰還民を迎えたのは、和服で着飾った同胞。
でも、誰一人本気で歓迎してはいなかった…臭い・汚いと貌を背け手も差し伸べず足が近づくのを避けている。
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さらには、親戚縁者を頼って身を寄せた引揚者達の多くが浴びたのは「この食料不足にトンデモナイ“ごく潰し”が帰って来た」との言葉。
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父母も結局は母方の親戚にも居られず、生家も失くなった父の故郷で駅前テント生活を余儀なくされたのです。
そんな時に私はジフテリアを発症しました。
「感染する病気じゃないの~~隔離しなきゃ、とにかく皆の傍には近づかないで」と仮設のテントに聞えよがしの周辺の声。
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何処にも居場所が無い両親の想いはどんなだったのでしょう。
時にはヒッソリと身を隠すテントに言葉の礫…同胞の無情・非情。
引き揚げ後にも剥がせない『引き揚げ者』のレッテル。
父は言ってました「でも、だからこそ俺は発奮した、絶対に成功者になると」
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そして、引き揚げ者だけでは無く、もっと酷い差別をされていた在日のロシア人、朝鮮人にも手を差し伸べてきたのです。
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父が成功すると、いままで暴言や唾を吐いた人たちが何も無かったかのように近づいて来ます。
敗戦時には同じ日本人を滅多切りし見捨てた同胞が…満面の笑顔でね。
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戦争は「人から心を奪い鬼に変える」。
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親しいと思っていた人に意地悪されたことはありますか??
信じていた人から「食い扶持を減らす余計者」と言われたことは??
戦争の悲劇は戦地だけではなく、国内にも戦後にも起きます。
戦争はそんな哀しい現実を子供たちまで見知ることになるのです。
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NO WAR
、何度も訴えます、戦争加担はダメ
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