稲城の大梨
美味しく食べられ、小さな楽しみがある日々…『一病息災』で穏やかに優しく生きたい
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初秋の風物詩、稲城市隣接の街の駅には改札前通路に出る稲城梨農園の出張販売デスク
この稲城地域は、多摩川沿いの梨生産地の中でも大きな果樹園が並びます
農園に行ってのもぎ取りが主体ですが、近隣駅ではこの出張販売が人気
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日本の梨は弥生時代にはすでに栽培されていて、古くから馴染まれていた果物だと思われます
ただ、敢えて“日本の梨”と言ったのは、二十世紀梨の登場までは、「バターのよう」といわれた洋梨と違って、「サンド(砂)」のようと言われ、海外では不評だったのですねーー(>_<)
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日本の梨には、二十世紀などの青梨系と、長十郎などの赤梨系があります
北陸中心には青梨系、関東中心には赤梨系が多く栽培されてきました
特に長十郎の誕生した川崎では、長十郎に次いで、早生幸蔵、泰平、独乙(どいつ)、生水(いくすい)などが誕生し、大正時代には関東一の大生産地にまでなったんです
が、その後川崎は工業都市としての発展に変わり、梨畑は激減(/_;)
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昭和30年以降、川崎を中心に多摩川沿いに“多摩川梨”の復興が進み、いまでは、川崎から稲城、多摩、府中と梨の生産が広まっています
もともと水田だった土地に植えた梨の成功がキッカケで、多摩川沿いに広まった梨園
その陰には、日露戦争後に多摩川が東京市民(当時は東京市だった)の上水となり、その使用量急増がありました
水は上水に回され、結果水稲栽培に水不足などの支障をきたしたのです
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多摩川沿いの水田を、梨園に作り変えることで、作付け面積は一気に増大
が、第二次世界大戦が始まって、「果物は贅沢品」の声が高まり、折角の梨園は樹勢も衰え、管理も不十分になり、荒れる一方に
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戦後、やっと復活した梨園ですが、各地の梨園の品質に遅れを取り、東京市場では扱われず
やがて、果樹園の“もぎ取り”が流行りだし、梨農家は結束して観光化を進めて《多摩川梨もぎ取り連合会》が発足
観光農園や直売所が増える中、進藤益延が長年かけて改良を重ねてきた新種の梨“稲城”は、口コミなどでフアンを増やしていきました
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この“稲城”は、青梨系と赤梨系の中間色で、早生梨と晩生梨を掛け合せたので端境期の初秋に結実
1個の重さは小さくても400~600g、大きなものでは1kgを超えて・・・値段も↗(^O^)
子供の頭ほどの梨ですが果肉のキメの粗さもなく、果汁たっぷり、舌触りが良くて甘い
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